午前中、息を潜めながらオフィシャルサイトを大改装。その途中このウェブログも間違えて消してしまったのだけども、どうせそんなヘマを犯すだろうとバックアップを取っておいたから最小限の被害ですますことができた。
愚か者のみが持つことができる経験からの英知。
午後はサンサーンスによって編集されたラモーのオペラ「優雅なインドの国々」のスコアを勉強しながら、「ブフォン論争」について思いをめぐらせていた。
ブフォン論争(仏語:Querelle des Bouffons)とは、1750年代にヨーロッパの知識人の間で起こった論争をさす用語である。議論の中心人物はフランスの作曲家ジャン=フィリップ・ラモーであり、その作品は、イタリア・オペラの愛好者から不自然・人為的と攻撃され、百科全書派の反王党派の人々からも批判されていた。とりわけ反ラモーの急先鋒はジャン=ジャック・ルソーである。ルソーは、旋律よりも和声の優位を強調しがちなラモーの主張や作曲様式を否定し、ラモーの和声理論に見られる短所を、それが短所であるというだけで攻撃し続けた。ラモーの作曲様式は、明らかにジャン=バティスト・リュリの作曲様式を出発点としているが、ラモーと同時代のその他のバレエ作曲家やリュリの作品に比べると、踊り手に対して、滑らかに滑走するようなステップよりも、随所で跳躍するようなステップを要求しがちでもあった。ラモーは一連の著述の中で自作について釈明し、独自の作風によって作曲し続けた。論争自体は1764年にラモーが没すると沙汰止みとなった。
このように、ラモーの作風や音楽理論は、同時代の知識人から好奇の目で見られたものの、音楽現象の合理的な把握と知的で明晰な楽曲構成の追究という側面は、19世紀になってサン=サーンスやポール・デュカスらにより再評価された。
ブフォン論争 – Wikipedia
まあ、僕も大学で音楽史を教えるなんていうことをしていた時もあって、上記の内容は理解しているのだけども、「ラモー派」と「リュリ主義者」のやり取りをクロノロジカルに目を通したことがないこともあって、論争の本質をまったく理解していない。(理解はしていると思うのだけども、どうも不思議な違和感を感じる。) そしてこの論争がどのような決着をみせたのかもいまいちよくわからずにいた。
スコアを目に通していてなんとなくわかったこと。
一般的に(つまり大学の授業などで習う内容)ルソーが「オペラはイタリア式のものが一番だね。そもそもフランス語は音楽には向かないよ。せっかくリュリ先生がイタリアの叡智をフランスに持ち込んで成功させたのだから、へんてこなことするんじゃないよ。ラモーさん。」というフランス対イタリアという図式が成り立っているこの論争だけども、実際には200年ほど後にアルゼンチンで起こったピアソラ対古いタンゴ主義者の論争と似たようなものだったのではないか。
減七の和音を使う。
管楽器が弦楽器の後ろで独自の行動を取る。
ファゴットが高い音域にまで登りつめる。
アヴァンギャルドすぎたのではないか。
そう考えればなぜフランスの文化人たちが、今回に限って文化的ライバルであるイタリアの音楽を擁護したのかも判るような気がする。
このアヴァンギャルドな態度はグルックに受け継がれ、グルックに心を奪われていたベルリオーズに受け継がれる。しばしばフランスのバロック音楽はイタリアのそれに比べてまじめすぎると思われている節があるけども、この人の場合は逆のほうに行ってしまい時代を先に行き過ぎたのだ。
そういえば、かなり昔にパリのスーパーマーケットでフランス人の美人の友人に「なあ、フランスで有名なフランスの作曲家って誰なの?」と尋ねてみたところ、「ラモーとドビュッシー」と返ってきたのを思い出した。
「リュリは?」
「あいつはイタリア人。」
「ベルリオーズは?」
「音楽家としてよりも変人として有名。」
(フランスすげーっ!)と思ったのを覚えている。