「社会は、富の不平等を伴わずには存在しえない。そして富の不平等は、宗教なしには保っていかれない。」といったのはナポレオンだけども、確かに宗教は富んでいない人の気持ちを落ち着かせてくれる。死んだ後をも含めた未来での繁栄を保証してもらい納得する場合もあるし、最初から自分の力ではどうしようもないと運命を受け入れる場合もある。先祖の悪行が理由の場合もあるし、前世での過ちの報いを受ける場合もある。
しかし昨今のニュースなどを眺めていると、この世の不平等を認めるのに宗教が有効に働いているとはいえず、ではどのように新橋の駅前のおっちゃんや買い物帰りのおばちゃんたちが納得しているのかというと、どうも「苦労して努力をした人たちは富んでもOK」という感覚を共有しているようだ。
「まじめに働いている人は失職などするべきではない」
「つらい下積み時代があったから今輝いている」
「親の七光り、ずるい」
ひどいのになると「自分へのご褒美」なんていって、自らの贅沢さえも肯定してしてしまう。当然「景気の停滞」などという誰も定義できないような現象を感じ取った際には、昨日もおとといもまじめに働いたわけだから「理不尽な現象」に巻き込まれていると理解して、自分以外の誰かに責任があるかのように錯覚してしまい、自分よりも富んでいたものの大きな損をかぶっている人を見るにつれ「天罰が下った」感じると同時に「何で自分までとばっちりをうけなくてはならんのだ」と腹を立てる。
米国人は先の世紀、宗教の救済に反発して「自由な個人」という妄想を作り上げた。日本人は神の働きを社会にゆだねた。社会に認められるよう努力し、社会にもその機能を持つように願い、政府やマスコミ、あるいは大企業がそのような社会を作ることを期待した。
今どちらが幸せなのかはわからない。
わからないけども約束されていない未来のためだけに現在一生懸命になって努力して、現在を現在として享受できないような日本のままでは希望は生まれないような気がする。たとえば将来音楽家になりたくて努力をしている人が僕の目の前に来たら、いつもはっきりと言ってあげることがある。
「音楽家に僕がなったのは努力したからではないよ」
別に社会が僕の努力を認めてくれたわけでも、因果応報的に報われたわけではないんだ。と同時に僕が別荘を所有していない現実も、別段僕の怠け癖のせいではない。僕は今日やるべきことをやっているだけ。「お前のような言葉は若者から希望を奪う」と言う意見も理解はできるけども、希望というのは約束されていないからこそ有効なのだと思う。未来がどうなるかシミュレートするという行為自体が希望を奪う結果になる。
ならないかもしれない。
どちらにせよ未来のことはわからない。