少し鈍き刀

13.02.2013

午前、劇場の歌関係の指揮者たち、ピアニストたちとミーティング。ピアニスト来訪、紹介状を認めて渡す。七面鳥を頬張りつつ雑務。デモの視聴少々。

午、牛のアキレス腱のスープ、鶏の煮込みと目玉焼き。

午後、明日の吹奏楽団のレコーディングのセッティング。曲作り少々。体調悪し。テリヤキチキンバーガー作成。バド・パウエル晩年の演奏を視聴。

よき細工は、少し鈍き刀を使ふといふ
妙観が刀はいたく立たず

– 吉田兼好 徒然草 第二百二十九段 

妙観は、大阪の勝尾寺にある木造千手観音立像を刻んだ八世紀の僧だと聞いている。僕は徒然草にてこの言葉と出会ったわけではない。「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」以降を読んだことがほとんどない。

小林秀雄はこの段について「彼(吉田兼好)は利き過ぎる腕と鈍い刀の必要とを痛感している自分の事を言っているのである。物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか・・・」と解している。

白洲正子は読者からの手紙で「鈍刀といっても、はじめから切れ味の悪い刀では話にならない。総じて刀というものはよく切れるに越した事はないのである。その鋭い刃を何十年も研いで研いで研ぎぬいて、刃が極端に薄くなり、もはや用に立たなくなった頃、はじめてその真価が発揮される。兼好法師はそのことを「鈍き刀」と称したので、「妙観が刀はいたく立たず」といったのは、切れなくなるまで使いこなした名刀の、何ともいえず柔らかな、吸いつくような手応えをいうのだと知った。そういう経験がなくてはいえる言葉ではない。奥には奥があるものだと私は感嘆した」と書いている。

青山二郎は「九十年も研いで研ぎ上げると幻の如く煙の如く立ちのぼるものがある。そういうものが日本の精神なのであって、兼好はそれを妙観の刀にたとえたのだ」と言ったという。

三人とも、手にしている研ぎ澄まされた頭脳と文章の技法を、吉田兼好が抑えこみつつ全てを書かずいることを「少し鈍き刀を使ふ」と言っている。繰り返すけども僕は徒然草をほとんど読んだことがないのでそれはわからない。刀についても日本の精神についても門外漢だ。

やっと最近になって曲作りにおいて知っている技法をいかに使わないか、そして繰り返されるセクションをコピー&ペーストを使わず同じやり方で手書きすることが一番の推敲の方法であることを体得した。

演奏に関してはもっと難しい。楽器を持っていない時はいいのだけども、舞台に立つと巧く弾いてやろうとしてしまう部分がまだかなりある。晩年のバド・パウエルを聴いていて自分の至らなさを思い知った。

 

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