作曲と演奏の乖離

05.08.2019

午前、人事関係会議。曲作り。

午、ミネストローネ、ビーフシチュー。

午後、曲作り。原稿。書見。

A man convinced against his will is not convinced.

– Laurence J. Peter

自分の意志に反して納得させられた者は、納得していない。

– ローレンス・J・ピーター

20世紀の日本での現代音楽(というのもおかしいけど)界隈の状況に思いを馳せる。ウェーベルン辺りまでは理解してしまおうという全体的な意思と、日本民謡の拡張の試みが入り混じっていた状況に、米国的なグローバルで自由な発想が輸入されて、肩の力が抜けて自由に個人が書くようになったのが60年代。ところが個人に基づいた作品にはステレオタイプな日本が見いだされないものだから、欧州では売れない。いつのまにか核音だとかテトラコルドなんていう音組織の回りに派生音を取り付けた、五音音階的クロマティシズムが主流となった。

主流となった大物作曲家はこのシステムを作ったわけではなく、誰かがぎこちなくやっているようなことをいくつか取り入れて、器用にきれいに仕上げる名人だった。

楽器演奏に関する状況はもう少しばかり暗かった。グールドやフランソワのような極めて個人的な方法を取るレコードなども入ってきたとはいうものの、アカデミックな場所ではそれを異端と決めつけ、いつまでも本場に認められることを良しとしていたからだろう。日本的な演奏とは気持ちを込め、情熱的な素振りを見せつつ、反復練習による土台作りのことだと、自分で自分を納得させているようで、そこで思い浮かぶのはスポーツ根性との類似だ。

それが良いのか悪いのかは僕の与り知るところではない。

ただ、そのような姿勢は日本の曲を演奏するには向いていないという現状から、いつまで目を背け続けるのかという疑問に、そろそろ相対するべきではないかと思うんだ。作曲も演奏も、もう少し無心のほうが東洋的なはずだ。

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