各時代の古典


02.12.2018




午前、清掃。楽器練習。曲作り。住居探し。論文添削。




午、ラザニア。




午後、税務関係奔走、支払い、困窮。チキンカレー作成。書見。




話術でも芸術というのはすべからく無駄の排除。無駄をなくす。これが芸術として昇華してゆく。無駄をなくしていくと、芸として上品になる。形になる。するとこれが芸として確立する。だから、永続性が保たれる。ところがここに古い上品を破るために新しい下品が出てくる。新しいモンっちゅうのは常に下品なモンや。だからインパクトがある。ところがこれは永続性が乏しい。漫才なんかでいいますと、いとしこいし先生というのは実に無駄の排除。洗練された話術。形としてピシッとある、古い上品です。ところが、ダウンタウンやとか、例えば一時の紳助竜助やとか。のりお・よしおとか。あれは、インパクトはあるけど下品やねん。下品はインパクトはあるけど長持ちがせんがな。どうしても。長持ちをさすには、下品さを失わす、無駄を排除せなイカン。無駄を排除するうちにインパクトが失われる。ですから常に芸の世界というのは、古い上品と新しい下品の戦いなんです。


– 上岡龍太郎




パガニーニは自身の名声が上がるに連れ他人の曲は弾かなくなり、その唯一の例外がベートーヴェンの協奏曲だった。観衆はあまり喜ばなかったらしいけども。当時の古典的なスタイルを爆心的に拡大していったベートヴェンの音楽は、割とすぐに古典として認められ、ブラームスによって引き継がれたと見做すことができる。ベートヴェンのスタイルをさらに拡大させていったのがワーグナー。そのワーグナーが若い頃憧れていたのはロッシーニだった。ロッシーニはベートーヴェンよりも古いハイドンやモーツァルトの様式をイタリア・オペラに取り入れ、若い時分にベートヴェンを凌ぐ人気を博し、さっさと隠遁生活に入ってしまった。ベートヴェンはロッシーニの才能に感服していたけども、すでに聴力を失っていたから、その音楽をスコアを読むことのみで把握していた。




各時代で古典と呼ばれていた様式を打ち破った作品群も、やがて忘れ去られ、そうでなければ次の時代には古典と呼ばれるようになる。洗練されるのは演奏様式のみで、書かれた作品が変わるわけではない。




今この瞬間にも次世代の古典が生まれている。なんだかの様式を受け継ぎ洗練させ、あるいはそれを拡大して。文学や数学の世界でも同じだろう。それを知らずに世を去るのは惜しいと言うよりは馬鹿げたことなのだと思う。


少なくとも僕にとっては


02.12.2018




午前、楽器練習。




午、巻鮨。




午後、子どもたちと散策、グローサリーショッピング。映画鑑賞。餃子丼。書見。




You say to a brick, ‘What do you want, brick?’ And brick says to you, ‘I like an arch.’ And you say to brick, ‘Look, I want one, too, but arches are expensive and I can use a concrete lintel.’ And then you say: ‘What do you think of that, brick?’ Brick says: ‘I like an arch.’


– Louis Kahn


煉瓦に尋ねる。「煉瓦君、何になりたい?」すると煉瓦が答える。「アーチ橋が良いな」それで君は答える。「あのさ、僕もそれが良いよ。でもアーチ橋は高価だし、それにコンクリートのまぐさを使うこともできる」君は続ける。「どう思う、煉瓦君?」煉瓦は言う。「アーチ橋が良いな」


– ルイス・I・カーン




音楽というものは文字通りの意味としても、メタファーとしても、その存在を掴まえることができない。英語や西語でいう”intangible”な存在だ。




少なくとも僕にとっては。




良い(あるいは良くない)音楽作品は存在する。同様に良い(あるいは良くない)音楽家も、音楽活動も、音楽教師も、音楽関係の批評家も、個人的なものさしを使えば判断することができる。でも「良い(あるいは良くない)音楽」となると、それが何を指すのか分からなくなってしまう。建築物に対する建築の存在、あるいは念仏に対する仏の存在のようなものだ。




少なくとも僕にとっては。




未だにその存在がよく分からないものの、良い音楽作品を作ろうとする時、良い音楽家であろうとする時、良い音楽教師であろうとする時、その方向が必ずしも音楽を向いていないことは感じる。そこに他人が介入するからかもしれない。自分のエゴが音楽よりも”tangible”な形で生まれるからかもしれない。だから「自分の音楽」などというものを理解することは不可能なこととなってしまう。





少なくとも僕にとっては。


食べるべきもの


01.12.2018




終日仰臥、林檎。




When I put my brush to canvas, I never know what I’m going to paint. It’s like when you’re walking down the street with your hands in your pockets, humming a tune, you don’t know what you’ll be humming five minutes from now.


– Peter Max


絵筆をキャンバスに走らせ始める時、僕は自分が何を描くのか分かっていない。ポケットに手を突っ込んで道を歩いている時に鼻歌を歌って、でも5分後に何を口ずさんでいるのかなんて分からない、そんな感じ。


– ピーター・マックス




六重奏団のケーナ奏者は「食べないもの」というものを持っている。菜食主義者だとか絶酒主義というわけではなく、なんだかの線引をしているのだけども、その線自体も緩やかに変化する。例えば牛肉や豚肉のような赤肉は基本的に食べない。でもハモン・セラーノやイベリコ豚系のいくつかの加工肉は食べる。乳製品は摂らないけども、少々のチーズは食べる。要するにワインに合うものはOKなのだろう。




ヨーグルトは食べないけどもクミスは好きだったという。エクアドルで売っている非常に緩いヨーグルトだ。「クミス本来カザフスタンでいう馬乳酒のことだぜ」と言うと目を丸くしていた。もちろん馬乳酒だってヨーグルトのようなものだけども。日本ではカルピスがクミスを元に開発された。




僕は母に「何でも食べなさい」と言われて育った。(母が少々偏食気味なので「何でも」といっても知らずに育った食物も多いのだけど…)道で動物のの内蔵を焼いていれば求めて食べるし、口噛み酒が振る舞われればそれを飲む。その結果、たまに食中りに苦しむこととなる。例えば、今日がそうだ。子どもたちが買ってきてくれた林檎をありがたく齧りながら、体内からいろいろと出ていくのを待った。




霞でも食べて生きていこうと誓うのだけども、治ればそんな誓いは破棄される。


小旅行後


30.11.2018




午前、楽器指導。雪中北上。帰宅。




午後、事務作業。酸辣湯、餡饅。書見。




Beware lest you lose the substance by grasping at the shadow.


– Aesop


影を掴んで、実体を逃さないように気を付けるんだ。


– アイソーポス




様々な国から200人ほどの少年少女たちが小さな町に集まって一緒にオーケストラ演奏をする、なんていう社会的意義はともかく、何せ大変そうなイベントに六重奏団で呼ばれて、演奏をする合間の時間に楽器を教えるという小旅行から帰ってきた。




小川の一つの縁から向こう側へ、小さいながらも確実な飛躍が為されたことが感じられたので、安心した感じでホッとしていたのだけども、それが悪かったのか帰宅してから熱と悪寒に苛まされている。アマゾン地方の植物で茶を淹れ、活性炭の錠剤という謎の物質を飲み込みながら、ウトウトとしていると不思議なホケット状の音楽が聞こえてきた。




回復したら歩き始めなければならない。


秘伝のツメ


25.11.2018




午前、楽器練習。曲作り。




午、炒麺。




午後、リハーサル。曲作り。生姜雑炊作成。書見。




Trying to change the world without changing our mind is like trying to clean the dirty face we see in the mirror by scrubbing the glass. However vigorously we clean it, our reflection will not improve. Only by washing our own face and combing our own unkempt hair can we alter the image. Similarly, if we want to help create conditions that foster peace and well-being in the world, we first need to reflect these qualities ourselves.


– Chagdud Tulku Rinpoche


僕等の考えを変えることなく世界を変えようとするのは、鏡に映った顔の汚れを鏡面を擦ることによって綺麗にしようとするようなものだ。どんなに力を込めて鏡を磨いても、映る姿が良くなることはない。顔を洗い、ほつれた髪を梳かすことによってのみ、その姿を変えることができる。同様に、世界の平和と幸福を促進に手を貸したいと思うのであれば、まずは平和や幸福の資質が自分に表れるようにしなければいけないね。


– チャッドゥ・トゥルク・リンポチェ




ちょっとまともな飯屋に入って、ちょっとまともな一皿を楽しんだ時、そのレシピを知りたいと思うだろうか。例えば「穴子:活き締めされたものを目打ちして、中骨に沿うように尾びれまで包丁を滑らせ、身を開いて丁寧に内臓を取り除き、中骨を取り除いてから、頭を落として腹の骨、尾びれ、背びれを取り除いて水洗い。鍋に水、酒、味醂、砂糖を入れ、落し蓋をして強火で煮てから冷ます。創業以来300年間継ぎ足しで作られている一子相伝秘伝のツメを少し刷毛で塗る」ということを知りたいだろうか。




僕は「再現は無理だからいいや」と白旗を振る。この部分は音楽で言ったら音源や楽譜をもらってからリハーサルが終わるまでの一連の流れのようなものだ。特に隠そうとも思わないけども、特に知りたい人も一般的にはいないのではないかと思う。プロになりたければここが肝心なのだけども。




僕等の一次ソースとなる楽譜。これは活き締めされた穴子のようなものだ(作曲家はそれくらいまでは準備する)。これを作るのは、良い状態の穴子を手に入れるのと同じくらい難しい。でも、それを捌く技術や一子相伝秘伝のツメよりは簡単に手に入る。(たぶん。僕は穴子に関してはそんな努力をしたことはない…)だから楽譜などはオープンソースとして公開してしまおうと思うのだけども、それは魚屋に活き締めされた穴子をそのまま並べるようなもので、あまり意味がないのではないのではないかとも思う。




今日の六重奏団のリハーサルで、僕が作曲家として指定したテンポやリズムがいくつか改定された。僕はしっかりと自分が思うところを述べるのだけども、なんせ多勢に無勢で「ああ、こっちのほうがいいね」と最後には笑っている。これが創業以来の秘伝の味付けだ。大切な部分は言語化されていない。




ある種の技は口伝できない。もちろん殴って分からせることもできない。