二点の距離

19.08.2018


午前、スコア勉強。事務作業。


午、冷やし中華作成。


午後、仰臥。鶏とカリフラワーのフリカッセ作成。書見。


Les heures sont faictez pour l’homme, & non l’homme pour les heures.


– François Rabelais


人間のために時刻はが作られたんだ。人間が時刻のためにあるんじゃない。


フランソワ・ラブレー


ある一定の音の高低のことを音程と呼ぶのは、時の流れの中の一点を時間と呼ぶのと同じように誤用でしかない。それはあくまでも2つの音の距離のことだ。


基本的には。


バイオリンのような楽器の場合は、音が鳴っていない弦でも別の音の響きに影響を及ぼすことがあるから、実際には一つの音しか聞こえなくても音程という感覚が生まれる場合もある。


何れにせよ大切なのは距離の間に流れが生まれる音程や時間であって、固定されたピッチや時刻ではない。そして頭で作り上げた相対的な概念としての音程や時間よりも、空間的に感じられる距離のほうが大切だ。


16世紀頃に長調や短調が生まれた頃にそれぞれが人々に与えた心理的距離を知りたいと思う。


三竦み

18.08.2018


午前、楽器指導。事務作業。


午、蟹钳翅、什锦炒麺。


午後、息子と散策、散髪。仰臥。書見。


Life is denied by lack of attention, whether it be to cleaning windows or trying to write a masterpiece.


– Nadia Boulanger


注意力の欠如によって人生は失敗する。それが窓を拭いているときであろうが、傑作を書こうとしているときであろうが。


– ナディア・ブーランジェ


楽譜を書き付けている時は、表し得るパラメータが非常に限定されているので、そんなに逡巡することもないし、後にある程度その必然性を説明をすることもできる。これがデジタルでの作成となると(音高と音価以外の)すべての根拠が希薄となる。なぜパンは84で85(あるいは83)ではないのか。ベロシティは、エクスプレッションは、モジュレーションはetc.


頭の中の動きは楽器演奏や指揮をしている時に近いのではないかと思った時もあったけど、体幹や脊髄あたりが忙しい時と、指先と脳が直接繋がっている時では何もかもが違う。アナログの機材のフェイダーやノッチを弄っているときのほうが感覚は近い。


身体感覚が入ってくると簡単にハイにはなりやすいけども、想像力はその先まで行くことができる。難しいのは正直な感情との結びつけ方だ。


日常/非日常

17.08.2018


午前、曲作り。


午、蛋湯。


午後、曲作り。お好み焼き作成。書見。


It’s not too difficult to find a string player who really sings on his instrument, but it’s very rare to find a string player who speaks on his instrument.


– Sándor Végh


楽器を使って見事に歌う弦楽器奏者を見つけるのは難しいことではない。でも、楽器を使って語ることができる弦楽器奏者を見つけるのことは、なかなかできないんだ。


– シャーンドル・ヴェーグ


芸達者な落語家は、高座に上がって枕を話している際に、その日の客が辛党なのか甘党なのかを判断して(これはもちろん比喩だけども)本題の運び方を決めるそうだ。落とし噺であろうが人情噺であろうが、あるいは芝居噺でも音曲噺でも、場のマジョリティに合わせることによって全体の雰囲気を統一していく。


語っているのが片方でも、基本的にダイアローグの芸だからだ。食堂のおばちゃんが「あちらのお客さんのとんかつが揚がったらあんたの肉を切るから待っといてね」というのと同じ。非日常から日常に戻ってくることとなる客と、非日常的な仕事をしている者との差。


21世紀の音楽界は、退屈な日常から客を非日常に連れて行く場を求められているようで、少々やりにくい。


音楽の非効用

16.08.2018


午前、曲作り。


午、ポタージュ、ピラフ。


午後、楽器指導。曲作り。コンサート。白米、味噌汁。書見。


Those who seek to satisfy the mind of man by hampering it with ceremonies and music and affecting charity and devotion have lost their original nature.


– Zhuangzi


儀式や音楽、感動的な事前行為や献身によって人の心を満たそうとする輩は、自分の本来の性を忘れてしまっているのだろう。


– 荘子


六重奏団のギター弾きのご尊父が人生初の個展を開くというので、サプライズゲストとして演奏してきた。集まった方にとってはサプライズかもしれないけども、もちろん主催者側は重々承知しているわけだ。それでも会場の主である文化省は知らなかったらしく、数本の電話での怒号の後、大量のメディアがやってきた。


客寄せパンダになるのは問題ないけども、弾いている時にいくつものカメラが顔の横に有るのは鬱陶しい。無精髭面だし。


一年近く一緒に演奏しなかったメンバーと一緒に演るのは幸せだった。他の人と演奏しているのもそれなりに新鮮だったけども、端的に言ってすべてが不自然だった。


一番嬉しそうだったのはマネージャだったけど。


隠れ蓑

15.08.2018


午前、曲作り。


午、ミネストローネ、キャベツ。


午後、リハーサル。曲作り。仰臥。書見。


他人の芸を見て、 あいつは下手だなと思ったら、 そいつは自分と同じくらい。 同じくらいだなと思ったら、 かなり上。 うまいなあと感じたら、 とてつもなく先へ行っている。


– 5代目古今亭 志ん生


音楽の古典的な型に異物を放り込むという手法においては、1910年頃から機能調性の霧散に対する応答としての極端な2つの潮流、新古典主義も12音技法も同じだった。後に欧州のアカデミズムによって「民族主義」とレッテルを貼られた無数の曲も同じ。


一方、自分で作り上げた型に不完全な破片を入れていく、例えばバルトークやピアソラのような手法も、下手なエピゴーネンのお蔭ですっかり色褪せてしまった。


細部と外部はその材料も成り立ちも違うから一致することはない。完全に分断して同時進行で考えなければいけない。


細部は自分を、外部は聞き手を盲ます道具だということを認識して。